その人の事は、誰もが皆知っていた。罪人が、地獄の鬼達すら、その人のことを畏れた。
この魔界を統べる、冥府におわす閻魔大王さま。
能面のような白い顔を、柳のようにしなやかな手を、血のように赤い瞳を、その人に従事する僕たち獄卒は、遠目にだが一度は必ず目にし、その姿を心に刻み込まれる。
容姿はなんてことの無い、
現世に伝わる伝説上の姿に比べれば、それこそ本当になんてことの無い、細くて折れそうな壮年の男だ。
だが、纏う物がとてつもなく強烈だった。
その様をなんと形容していいか、僕には分からないが、皆は、彼の背から無数の叫びが聞こえると、あの叫び声は彼に舌を抜かれ永遠に苦しみ続ける亡者の物だと、口を揃えて言った。

今日、冥府で彼とすれ違った。時刻は子の中刻。既に皆帰った後のことだった。
腕に抱えた資料を書庫に運んで、それから自分も帰ろうとしていた時、廊下の前方に彼が現れた。こんなことは滅多に無い。大抵、閻魔大王さまは執務室に籠り切りだからだ。思わず固まってしまった。僕が動けないでいるあいだも、彼はこちら側に歩いてくる。長い衣を引き摺っているはずなのに、衣擦れの音ひとつ立てず、まるで滑っているような、ほんの少し床から浮いているような歩みのしかただった。
距離があと数歩まで縮まって、やがて彼は何も無いように脇を過ぎて行った。すれ違いざま、彼の口角がほんの少しだけ上がっているように見えて、「なに固まってるの?」と、聞いたこともない彼の声が耳元で笑ったような気がした。それで、急いで過ぎて行った彼の背を振り返る。
その背からは、亡者の叫びが聞こえるなど、微塵も思えなかった。



今日から、お前は閻魔大王直属の秘書官だ。

そう聞かされたのが昨日の今日で、「へ?」と上擦った返事しか返せなかった。
僕にさっきの衝撃発言をしたのは僕の先輩で、「閻魔大王さまと廊下でお会いした」と伝えていた相手だ。同情するよ、と、表情が言っていた。お互い思っていたことは同じ。
『あの人に、目をつけられたに違いない』。
閻魔大王直属秘書など聞いたこともない。だいたい、あの人は自らのことを周りに明かしたことは無いし、執務室には判決を下す亡者しか通さず、他の獄卒には一切仕事に干渉させることの無い人なのだ。それが、『直属』だと?なんだ、そのオワタ式は。
お前を消すつもりなのかもしれないと、先輩は要らん予測を立ててくれた。直属秘書…ずっと自分の傍に置いておくという名目の下、僕を外界から隔絶し、誰にも知られず僕はこの世界からオサラバ……だからもうやめて下さいよ!!
正直…、行きたくない。あんな得体の知れない人物には、できれば直接関わり合いたくない。だがしかし、時計は非情にも出勤時間を指していた。例の先輩は、今日は非番なんだと笑って呑気に送り出してくれやがった。もし万が一無事に帰って来られるようなことがあったら、とびっきりの酒用意しとくから一緒に飲もうや、って…、万が一って何だ、万が一って。
冥府の閻魔庁に向かう間、僕が大王さまの秘書に抜擢されたという話は早くも広まっていたらしく、周囲からの視線が、何ともいたたまれなかった。鬼のくせに僕に向かって手を合わせる者も居た。…どうしよう、帰って来られる気がしない。学校で校長先生に名指しで呼び出された時なんか、こんな気分だろうか。お先真っ暗、いやむしろバッドエンドしか望めない、みたいな。すっかり重たくなった心を引き摺りつつ、亡者の列がやってくる前の、静まり返った執務室の扉の前にようやくたどり着いた。縮こまる肺に、無理やり空気を流し込む。

「閻魔大王さま、鬼男でございます、御呼びでしょうか」

「……入りなさい」

思っていたよりも柔らかな声だった。だが、温度が感じられず、歓迎されたとは思い難い。どちらにせよ、入れと言われたからには入るしかない。震える手を両開きの扉に掛け、「失礼します」と言って部屋の中に入った。