手元には少し大きめの手帳。紙上には几帳面に表のような枠が書いてあって、僕は無言で裁かれていく亡者の生前の名と、罪状と行き先を書き込んでいく。
立ち位置は、閻魔大王さまの左斜め後ろ。ここから見える大王さまは、冷やかでこそないが何処までも感情を含んでいない。
大王さまは何者に対しても、如何なる場合でも公平であると、誰かが言っていた。判決を言い渡す声にも、感情らしいものは見出せない。その姿勢が非情だとは思わないが、地獄行きの判決を下された亡者が泣き叫ぶのも気にも留めない様は、獄卒のどの鬼よりも恐ろしく見える。
あの日、僕が初めてここを訪れたとき、卓上の書類に目を落としたままだった大王さまは、僕に一瞥もくれることなく、ただ無言で手帳を差し出した。何のことか全く分からなかったが、じきに開廷の時間になってしまったので何となく記録していくことにした。職務時間を終えて片付け後に卓上に提出しているのだが、きちんと目を通して下さっているようだし、文句も言われないのでとりあえず続けている。
あの日と言えば、無事に生還した時の周りの獄卒連中の反応ったらなかった。まさか帰ってくるとは本気で思わなかったらしく、今から宴の準備するから待ってろと、緊張と立ちっぱなしの疲労でクタクタの身で2時間夕食をお預けされた。
何かが倒れる、鈍い大きな音がした。音の方を見ると、大王さまとガタイの良い一人の男が居て、二人の姿勢から察するに、男が大王さまの椅子を突き飛ばして倒したのだろう。背面から床に落ちた大王さまの顔には、微かな怯えがあった。初めて見る表情の変化だった。
男が吠える。
「ふざけるなよ!! 俺が地獄だと? 生きてる間にチャラにしたはずだろーが、つべこべ言わず天国に行かせろッ!!」
地獄行きの判決に納得がいっていないようだ。大声を上げるだけならまだしも、間にある机を踏み越えて殴りかかろうとまでしている。大王さまの裁判に横槍を入れるのは憚れるが、これは流石に見過ごせない。間に割って入って男の腕を掴む。男の視線がこちらを向く。なかなか凄みのある睨みだが、そんなものにいちいち怯んでいたら獄卒など勤まらない。口を開きかけたので掴んだ腕を捻じり上げて言った。
「ふざけるのをやめるのはお前の方だ。 今前にしている御方が誰なのか分かっているのか? 冥府の主の命令は絶対だ、例外は認めない。 そしてだ、現世だけで罪が購えると思うなよ、お前が犯した罪は何処までもお前に付き纏う。 それを洗い流してやろうと仰っているのだ、さっさと従え」
ここまで一気に言ったわけだが、どうせまた食い下がるだろうことは容易に想像できたので腕を引っ張って地獄の扉の中に投げ込んだ。深い黒に吸い込まれて、男の姿はすぐに見えなくなった。扉をしっかりと閉じて、大王さまの方に向き直る。
「止めるのが遅れて申し訳ありませんでした、大丈夫ですか?」
赤い瞳が、初めて僕を捉えたが、大王さまは動かない。そのまま立ち上がる素振りも見えないので近付いて手を差し出した。ぴくりと肩が揺れたような気がしたが、少しの間の後、大王さまは僕の手を取った。見た目通り、筋張っていて折れそうに細くて、体温が無かった。
「ありがとう…」
本当に久しぶりに、その声を聞いた。