その会話から、日を経るごとに、僕と大王さまの間を行きかう言葉は着々と増えていった。
挨拶に始まり、仕事に関する報告、その日の日程。休憩に入ると、茶を運んだ僕を捉まえて、大王さまは他愛のない無駄話を、毎回、休憩時間内に収まりきれないほどした。その表情の何と楽しそうなこと。ここまで楽しそうに話すのに、何故今まで他人との関わりを避けてきたのかと、疑問も湧いた。

沈黙を破ったあの日から、現世で言うところの1ヶ月が経たないくらいの間に、僕の、大王に対する印象は、最初の威厳に満ちた大王さまは何処へやら、一転して気さくな上司というものに変っていた。下手をすれば話しやすいおっさんにまで成り下がってしまう時もあるくらいだ。でもまあそれは、僕にとってはなかなか好ましい変化だった。僕がせっせとクソ真面目に働く所為で大王のサボり癖が露呈しつつはあるが、それでも、最初の余所余所しい態度より過ごしやすい職場環境だった。何だかんだ言いつつ、大王も裁判と、必要最低限の書類仕事はして下さっているし。

亡者がひとり天国の扉をくぐっていって、現世側からこちらに繋がる戸が沈黙した。記録用に使っていた筆をひとまず硯に置く。裁判終了の合図だ。
はあ、と大きな溜め息をついて大王が立ち上がる。

「大王、今日もこれからお出掛けですか」

大王が、この時間に席を立つのはいつものことだった。しかし、何処に何をしに行くのかは知らなくて、聞くのも失礼になるだろうと思って、帰り際、いつも黙って見送っていた。今訊いたのは、行き先が実はずっと気になっていて、ぶっちゃければ、それなりの付き合いが出来ていて調子に乗ってしまったのだ。

「何処に行かれるんです?」

さっきは確認するように、今度はハッキリと疑問符を付けて問うと、振り向いた彼はそれなりに疲れた表情で応じた。

「冥界の、オレより偉い人たちと打ち合わせ」

オレあれ苦手なんだよねぇと、冠の位置を直しながら呟く。僕が秘書になりたてだった頃の、僕が大王を庇ったことがあったあの頃の、か細い声が大王の口から出ることは無くなっていた。大王の口調や一人称の崩れ方は、僕よりもかなり顕著だ。

「あ、帰ってきたら話あるからさ、適当に時間潰してここで待っててくれない?」
「分かりました、行ってらっしゃい」
「うん。ごめんね、暫くかかるけど…」

そう言って大王は執務室を出て行った。さてと、僕は部屋の掃除でもしながら、あの人の帰りを待つとしようかな。
なにしろ、数えきれないほどの死者の相手をするのは僕と大王二人だけな訳なので、書き損じのある紙類や自ずと溜まっていく埃などには目も呉れていられないほど忙しいのだ。そんなわけで、執務室は人知れず汚れていた。全て部屋の奥の事だから、死者たちの目につくことはまず無いけれど。

紙片、糸くず、まさか大王が食べたのかお菓子のクズや包み紙。大王の机の下には血の染み込んだ紙も落ちていた。墨と見間違えるほど黒くなっていて、埃にまみれていて、かなりの時間が経っているようだ。あの人の性癖の片鱗は既に知っている。大方、セーラーを着た美少女の写真集とかそんな本を読んで鼻血でも出したのだろう。呆れたことだ。以前はあんな澄ました顔をしていたくせに、その頃からそんな物を、ねぇ。

一通り掃除を終えて一息ついていると、ほどなくして扉が開いて大王が部屋をのぞいた。そして僕の姿を見とめてフッと笑った。僕は正直、最近目にする頻度の多くなったこの表情がちょっと気に入ったりしているが、本人に言ってみたことはない。

「ありがとう、待っててくれて。それに掃除までしてくれるなんて、やっぱ君雇って正解だった」
「いいえ、個人的に気になっただけなんで。お帰りなさい、大王」
「ん、ただいま。それで、話なんだけどね」

君は今自宅からここまで通っているんだよねと訊かれて、何を突然と思ったが頷く。獄卒たちのための寮なような施設が冥界にはあり、僕も獄卒の一人であるのでそこに住んでいる。
その返事にそうかと返して、オレはこの閻魔庁に住んでるんだと言った。それから、この広い屋敷に住んでいるのは一人だから、空き部屋もかなりあると続けた。

「イヤに遠まわしですね。つまり……ここに住め、と…?」

確認のために尋ねると、閻魔大王は俯いて黙り込んでしまった。これまでに驚異のスピードで距離を詰めてきた彼だが、こういう誘いはまだ結構な冒険だったのだろう。もしかしたら、僕が大王が向かう先を聞いたしかえしのつもりだったのかもしれない。心が挫けそうになっているように見えるけど。
そのまま黙っていると、駄目かな?と少しだけ顔を上げた大王が視線だけで問うてくる。住み込みということは、遅刻の心配も少なくなるし、こちらはあまり嬉しくはないが残業もそれなりに可能ということだ。この人に対する不安ももうほとんど無いのだし、そうなると断る理由というのもナイ。それに、大王からの好意を無にするのもなんか気が引けるので、明日からここに住まわせて貰うと伝えた。
その答えを聞いた大王は、じゃあ明日どの部屋が良いか決めよう、と、楽しそうに笑った。