「ただいまーっ。あー楽しかった……!」
「そうですけど、毎回あんなにはしゃいでたら目立つでしょう、お忍びじゃなかったんですか」
「今回もお忍びだよ。でもほら…、今日は君が居たじゃない?」
「……そうですか…」

現世から帰り、いったん僕の部屋へと二人で戻ってきた。
さも当然のように寝台の上に並んで腰を下ろし、お互いに現世で羽目を外したことを言い合っては笑った。やっぱり地図も持たずに行くのは無謀でしたよ。そうだね、道教えてくれたあの子もなんか君に色目使ってたし。人外だって吊るし上げ食らうかと思いました。ていうかあんなのは適当に流せばいいんだよ、いちいち考えて返事しないでさあ。
しばらくそうやって話をした。あらかた話題を出し尽くすと、大王は「んーっ」とひとつ大きく伸びをして寝転がった。目を閉じて、満足そうに深く息を吐く。
薄い唇が小さく動く。音は出なかったが、何を言っているのかはすぐに分かった。

あぁ幸せ…。

白い布団の上に広がった黒髪を手で梳きながら、そうですねと相槌を打つ。だが、聞こえなかったのか、もともと独り言だったようで、大王は僕に言葉は返さずにぽつりと「ずっと続けばいいのに…」と言った。え…それは……――。まるで普段は辛くて堪らないとでもいうような口振りに、多大な違和感を感じた。どうにも引っかかって訊ねてみようかと思ったが、既に大王は穏やかに寝息をたてていた。まあ問質すのも憚られる気がするし、今はそっとしておくか。
腰から上だけで寝台に横たわった状態の大王をきちんと寝かせ、冷えないよう、その上に布団を掛ける。ふと時計に目をやると、丁度いつもは終業の時間だった。明日からはまたこの時間まで仕事か…。「ずっと続けばいいのに…」、か。分かる気がする、とひとり苦笑する。さて、大王が起きた時のために、今から夕飯の支度でもするかと、台所に立った。その時だった。

大きな音を立てて廊下からの扉が開き、一人の足音が入ってきて、二人の足音が出て行った。

……どういうことだ?というか、この閻魔庁内に、誰か居るっていうのか?

「…っ大王!!!」

急ぎ眠っている大王がいる部屋に様子を見に走った。部屋の景観はそのままで、争った形跡は一切無い。ただ、大王の姿が何処にも無かった。
大慌てで部屋を出る。向かいの突き当りがはるか遠くにあるほど長い廊下に、人の姿は見とめられない。くそっ、何処へ行った…!目を閉じて耳に神経を集中させる。鬼という、闇に生きる異形の物ゆえ、夜目も利くし聴力も鋭い。大まかだが、足音のする方向は掴めた。急がなければ。焦る心で床を蹴る。

延々と続く廊下を数回曲がったときだった。ようやく近くなりつつあった足音に、ふと変化が訪れた。

「…潜っていく…?」

横への移動ではない。音は確かに下へ下へと降りて行く。閻魔庁は平屋だ。段差はあれど、こんなに長い階段はひとつも無いはず。一体何処へ…。
まもなく、音は聞こえなくなった。手掛かりを失くし、途方に暮れた僕は、ふらふらと当ても無く冷え冷えとした廊下を彷徨い歩いた。



もうこの建物内を何周したろう。まだ状況が把握できないまま何度目かの執務室前。部屋の中に人の気配を感じた。飛び付く様に扉に手を掛け、開こうとして、ほんの少しだけ戸が開いて中の様子が垣間見えて、僕の手は動かなくなった。
そこにいたのは、さっきまで僕の部屋に居たのとはまるで別人の閻魔大王。髪は乱れ、着物もかろうじてという様子で肩に掛かり、露出した肌の部分には火傷の跡が見える。苦しそうに前屈みに椅子に座り、肩で息をしては時折咳き込んでいる。力無く右手が持ち上がり、何度か机上を探った。触れた紙をぐしゃぐしゃに引っ掴んで口許に当てると、痩せた身体を強張らせて激しく咳き込んだ。咳に混じって聞こえる意味を成さない声に嫌な予感がしたが、その予想通り、顔から離れた右手の紙には赤い液体がじっとりと染み込んでいた。

それが指の間から零れ落ちて、机の下へ転がっていくのを見て、いつかの光景を思い出した。とっさに扉を音が出ないように閉じた。頭を戸につけ、足元を見つめながらしばらく放心していた。

「大王…」

ようやく出せた声は、酷く情けないものだった。