翌日、執務室に姿を見せた大王は、まさに何事も無かったかのように平然としていた。その様子に、僕が見たのは何かの勘違いだったのかと一瞬思いかけもしたが、大王が来る前に机の下を探って見つけていた血の染み込んだ半紙が僕の手の中にはあって、確信は揺るがなかった。
口数はいつもとそう変わらず、昨日出向いた現世についての他愛のない話題も出してくるし、それこそいつも通りの大王で、その日の裁判は終わった。そしてそう休憩も取らずに、大王はいつも通り席を立つ。普段なら黙って見送っていた。この前は調子に乗って行き先を訪ねはしたが、あれは正直興味本位だ。だが、今回はわけが違う。大王の青白い肌に現れていた火傷の様子が頭から離れない。これから大王が向かう先に、彼を傷付ける物があるのなら、黙って行かせる訳にはいかない。
「大王、待って下さい」
大王が隣を過ぎて行くよりも早く、立ち上がり声を掛ける。僕の呼び掛けにこちらに向いた大王の顔は、平静そのものだった。大王の正面に立って進路を塞いでから、知らず問い詰めるような口調で言った。
「答えて下さい。どちらへ行かれるんですか?」
「…前もこの話しなかった?冥界の、オレより偉い人たちと……」
僕は大王の言葉を遮るように腕を上げた。一体なんだと言わんばかりに眉を顰めた大王が、僕の手に握られた物を見て、少し眼を見開く。さっきまで握り締めていた、血の染みた半紙。赤黒いそれを開きながら、更にきつく問う。
「単なる打ち合わせのあとに……血反吐、吐きますか?」
「……それ…」
「昨日、僕の部屋から急に居なくなったんで、ずっと探してたんです。随分経ってから見つけました。…この部屋で、あの椅子で、ボロボロになって座り込んでいる貴方を。これは、その時貴方の手から落ちた物です」
お互いの視界を遮っていた半紙を下ろし、真正面から大王と向かい合う。血のように赤い眼も、ひたと僕の眼を見つめていた。何とも形容しがたい、強いて言うなら温度の無い視線に思わず怯みそうになる。喉を上下させてようよう唾を飲み込み、
「…打ち合わせなんて嘘でしょう?大王、貴方はいつもこの時間に、一体何をしに何処へ向かっているんですか」
決定的な台詞を言った。言ってしまった。
僕の発した言葉の後、大王はしばらく口を開かなかった。ただ、黙っている間も視線は僕の顔に集中していて、僕を内心委縮させるのには十分だった。ようやく、瞬きひとつせず静止していた白い顔が、たった一言口にした。
「………君には…関係無い……」
本当に目の前の大王が発したのか疑いたくなるほどの低い声でそれだけ言うと、脇をすり抜けて出口へ向かおうとする。当然納得できない僕は、大王の腕を掴んで引き留めた。掴む手に力を込める。
「関係ありますよ!貴方がいつも傷付いてるとしたら、それを見て見ぬ振りしろっていうんですか!?僕は知りたいんです、貴方が苦しんでいるなら、どうにかしたいんですよ!」
僕がそう言った途端、弾かれたように大王の首がこちらを振り返った。さっきまでの温度の無い眼とは打って変わって、限りなく怒りに近い感情をこめて。僕の顔を睨みつけながら、荒々しい口調で言い放つ。
「知りたいの?なら教えてあげる。オレはね、毎日毎日この時間に罰を受けに行ってるんだよ!この閻魔庁の地下深く、地獄よりももっともっと深くで、体を焼いて!溶けた鉄を飲んで!四肢を裂いて!!」
叫ぶようにそう言って、僕の手を振り払う。だからと言って出口に向かう訳でなく、僕に向き直り敵意を剥き出しにして更に言い募る。
「可哀相だろ?毎日毎日、死よりも、地獄の責め苦よりも辛い思いをしている閻魔大王さまは、さぞ哀れに映るだろう!?…じゃあ助けてよ、どうにかしたいんでしょ!?どうやって?無理だよ。だって大王さまは罰を受け続けないと、業に潰されて消えてしまうんだから!!」
とてつもなく激しいその剣幕に圧倒されて、呻き声ひとつあげることが出来ない。返答を待つかのように言葉を切った大王に、何と言おうか考える脳は働かず、そのくせ、大王を追及してしまったことを後悔することだけは忘れていなかった。浅はかだった。ここまで胸の内を打ち明けられても、どれひとつ受け入れることが出来ない。何も知らない自分が踏み込むべきではなかったのだ。何も身動きが取れないままに、大王の言葉を聞いた。
「君は何も知らなくてよかった…っ、俺に同情なんかしなきゃよかったのに!…君にオレは救えない。オレは救ってもらう必要なんか無い。分かったでしょ!?何も出来ないくせに、勝手なことを言うな!」
そう大王が言いきった時、執務室の扉が大きな音を立てて開いた。見ると、ちょうど僕と同じような獄卒らしいのが二人いて、ズカズカと入ってきた。その間に大王は、僕に背を向けて彼らの方に歩いて行ったが、つい先程大王の叫びを聞いた手前、引き留めることは出来なかった。閻魔庁には僕と大王の二人しかいないと思っていたが、地下には居たのだ。昨日も、今も、大王に罰を与えにやってくる奴らが。
獄卒に両腕を掴まれた大王が、廊下へ出て行く。彼は振り向くどころか、視線も寄越さない。両開きの扉が閉まり始める。
(大王は今日も、罰を受けるのか)
完全に停止してしまった頭でぼんやりと考える。大王が口にした罰は、どれも想像を絶する物だった。それを、死ぬことの無い身体で毎日受け続けるのか。……何故…。…そうまでして、償わなければならない罪とは何だ…?…そうだ、僕はまだ納得してない。大王が抱え込んでいる苦しみ、痛み、まだ何ひとつ分かっていない。意味の分からない罰で、あの人に苦しんで欲しくない。
大王たちの足音はまだ容易に聞き取れる。今ならまだ間に合う。執務室の出口に向かって駆け出す。
(やっぱり、助けたい…!)