眼を閉じたまま、最初に感じたのは体を背後、前方から挟むほんの少し硬いシーツの感覚。不思議に思って瞼を開くと、
正面に位置の高い天井が見えてますます不思議になった。自分は今どこに居るのか確かめようと首を巡らせた途端、
頭頂部に鋭い痛みが走り、思わず大きく呻く。その声を聞いてか、ひたひたと密やかな足音を立てて近づいてきたのは、
頬に火傷の痕が残ったままの大王だった。気がついたね、と独り言のように呟いて、傍にあった腰掛けに座る。
白い手を、僕の体に掛かった布団の上に添えるように乗せ、そわそわと赤い瞳を泳がせて、
どう見ても何か言いたげなのに黙りこくっている。じっとその顔を眺めていると、視線に気づいて見返して、
深く項垂れてしまった。それでもそのまま様子を窺っていると、深く息を吸ったようで細い肩がゆっくり上下した。
顔が少し上がり、赤い眼が覗く。
「えっと…大丈夫?鬼男くん…」
「…正直こっちの台詞のはずなんですけど…、まあ大丈夫です。…何が起こったんですっけ…?」
確か…頭を何かに強く打ちつけたような気がする。曖昧な記憶にはっきりと輪郭を付けようと、大王に問い掛ける。
大王は僕の眼を僅かな間覗き込むようにして、不意についと視線を逸らした。それと同時に
「裁判が終わった頃に落ちていた巻物を踏んでしまったみたいでね。倒れた拍子に机の角にぶつかったんだよ…」
そんな事を言うので、僕は痛みを無視して半身を起こし、語気を強めて言った。
「残念ですけど、貴方を追って地獄以上の深みへ至ったことは覚えているんですよ」
真正面から見据えて言えば、あぁ、と大王は嘆くように溜め息をついた。
それから、少し非難めいた声音で聞いてきた。
「…どうして追ってきたの?」
「納得できなかったからです。死者の来世のために魂を裁いている大王が、あんな罰を受けるなんて…」
間髪いれずに答えると、大王は悲しげに赤い眼を伏せた。
どうして分かってくれないの?そう心の中で呟いたのが容易に読み取れる仕草だった。非難の色を強めて言い返す。
「あれはオレの意思だ。それに、君に量れる訳がないよ、オレがやっている事がどれだけ罪深いことかなんて…。
いや、誰にも、だ。オレのことを憐れんで泣いてくれる連中なら居たけどね、こっちには何の足しにもならないし、
あっちだって自分の自尊心を満たしたいだけだったんだ、可哀相な閻魔さまのために自分は泣いてあげるから、って。
…悪いけど、君のさっきの行動だってそう。勝手に憐れんで余計な物見て、結局は何もできないでしょう?
考えてみれば、オレに深く関わらなきゃ君もそんな事を考えなかった筈なんだ。オレのことなんか余計に知っちゃうから
、そうやって可哀相に思ってやらないと体面が保ってられない。だから……って、オレには、そうとしか思えない」
大王の言葉が、鋭く胸に刺さるようだった。確かに、大王が罰を受けている事自体を知らないままなら、
大王が苦しんでいるなど微塵も考えず、のうのうと傍に控えて仕事をしていたことだろう。
大王自身の業を深めている仕事を、すすんで、延々と…。
知ってしまったからには、と、そんな言葉は事実でも使いたくない。
それでも、救いたいと心の底から思ったのだ。可哀想に、と泣くだけのような奴らとは、同じにして欲しくない。
「…僕は…泣いてなんてやりませんよ」
ぼそりと呟くと、え、と大王が見返して来る。その視線を正面から受け止めて、こちらの言い分を言わせてもらう。
瞼が小刻みに動いているのを感じる。今の自分は相当不機嫌な顔だろう。
「確かに最初は、理不尽な罰を受けて、それでも平気な振りしてるから、何とか助けてやれないかと…
憐れにも思いましたよ。けど、今はそんなあなたには、憤りを感じています」
大王はポカンとした顔で聞いている。何を言われているのか理解できていないようだった。
「まるで今こなしている仕事が悪いことのように、あなたは言う。亡者を裁き、導き、正しく輪廻させる仕事を。
それがあなたの存在理由であるのに。それ自体があなたに課された罰だというのに。
……自分を正当化している、という自覚が無いのでしょうね。
あなたが罰されれば良いなどと思う者は、どの世界にだって誰一人として居ません。
それなのに、まるで亡者の誰からも苛まれているように言い、
先刻の奈落ではわざわざ獄卒の姿をした物に、あなたを傷付けさせて」
頭の中が、どくどくと煩く脈打つ。怒りか、畏れか。口の中が渇く。
大王は相変わらず呆けた顔をしている。もしかしたら、これ以上言えば崩れ落ちてしまうかもしれない。
自分が言っている事が、どういうことかは理解している。これまでの大王自身を否定するに等しい。
それは分かっている。言ってしまえば、大王が今までと同じで居られる訳が無いということも。
しかし言わなくては。ここで口を噤めば、泣いてやるだけの連中と同じだ。
奈落の獄卒は、大王の意思の具現。大王への罰を止めるには、この人の心をどうにかするしかない。そのために…
「あなたこそ、自分を憐れみたいだけじゃないですか…!」
大王が立ち上がったのは、言い切るのと同時だった。
視線は空を見つめていて、静かに全てを否定するような、鈍い冷たさを持っていた。同じ温度で低く呟く。
狂気を孕んでいそうなほど虚ろな声だった
「やっぱりだめだ、きみはだめだった…ちがう。…ちがう、違う…!私じゃない、私じゃあ…」
何度もかぶりを振る。その様子は壊れた人形のようで痛々しかった。
辛うじて首を縫い付けている糸が、見えるような気がした。
不意に大王が背を向ける。ふらふらと覚束ない足取りで出口に向かう前に、僕にひとつ言葉を残して行った。
「……君とは関わるべきではなかった…。…出て行きなさい」